信じる心

信心深く、毎日手を合わせていたのに、どうしてこういう(辛い)目に遭うのでしょうか。

よく聞く言葉なのですが、信心深いとは何でしょうか。

何のために毎日手を合わせているのでしょうか。

毎日手を合わせているから不幸などとは関係がないはず、という捉え方で神仏と接しているのです。

要するに「自分や自分の廻りの人(家族や友人など)のため」に手を合わせているのです。

挙句の果てに、毎日手を合わせているのに不幸になった、とその責任が神仏にあるような言い方をします。

そして毎日手を合わせていた事自体が無駄であったかのように、つまりは信じていた神仏を疑っているのです。

そういう魂胆で神仏を利用しようとしてきた人間に対して、神仏はどう思うのでしょうか。

神仏でなくとも、あなたが同じような事をされていい気持ちがするでしょうか。

信じているよと言われながら、いきなり手のひらを返したように疑われていい気持ちのする人はいませんよね。

神仏とて同じ事なのです。

辛い目に遭ったとして、その原因は必ずあるのです。

しかも神仏や他に原因があるのではなく、自分にその原因があるのです。

それでも「この程度で済んだという事は手を合わせていたおかげだ」と思える自分であるならば、素晴らしい事だと思います。

宗教をした方がいいとか、しない方がいいなどは言いません。

したければすればいい、したくなければしなければいいのです。

ただ、宗教とは関係なく、神という存在があるのです。

神というとどうしても宗教的になってしまいますが、名前がなければ説明もできないので便宜上そう呼んでいるに過ぎないのです。

信心とは、人間の幸せを願うためのものではなく、この唯一の神のためにあるのです。

人間はその存在を知り、生かされている事の感謝を表現していくしかないのです。

人間の幸せは人間の努力で得ていくしかありません。

決して神が与えるものではありません。

神はこの世を、そして生を、すでにあなたに与えているではないですか。

真実への扉は・・・本家にある

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